能力の差にどう立ち向かうか

今日は、かなり傲慢な話をします。
ですが、世の中の1〜5%くらいの人間は、これから書くようなことを感じているかもしれないし、悩んでいるかもしれないし、考えているかもしれないと思います。

人には、様々な興味関心があって、知識や技術があって、社会的にも専門分野があります。
これによって、社会が成り立っているわけですね。

みんなが同じ興味関心しかなくて、みな同じ仕事をやりたかったら社会は機能しないわけで、
これは、男女それぞれに好みがあって、うまい具合にカップルが成立することに似ています。
世の中うまくできているわけです。

ところが、仕事の効率化や、組織の成長には、知識や技術だけでない力が要求されます。
これが問題解決能力であったり、課題設定能力であったりするわけです。

この能力があるかないかは、社会的にはものすごく大きな差が生まれます。

例えば、ある知識の中で自分の頭で好き勝手に考え、出てきた答えで行動することは、
憲法上でいえば、思想・表現の自由によって守られていると言えます。
ですが、その思考の過程とか、出てきた答えは必ずしも、物事の本質を捉えているとは限りません。
つまり、「物事の本質を捉える」「価値に基づく」「新しい価値を創出する」などは、特定の分野の知識や技術によるものではなく、様々な生活場面の中で獲得してきた総合力なのです。


////余談////
ここに注目をして育てようとしているのが、学校教育でいうところの「総合的な学習の時間」です。(問題解決学習などは、多くの教科でもなされてはいます)
//////////


とある問題に直面したとき、
10年間専門分野に携わった人よりも、たった1ヶ月しか携わっていない人の方が正しい解決の道を示せることがあります。
これは決して、経験によって頭が固くなったとか、水平思考が働いたとか、ごく限られた状況だけのことを言っているわけではありません。

問題に問題と気づく力とか、向かう先の価値に見通しを持つ力とか、解決の手順を示す力などは、現在のところ、経験年数に関係がありません。

そして、これを大人になってからつけようっていうのは、実は遅すぎるんです。

////余談////
だから総合的な学習の時間は大切だし、もっと活用しなくちゃいけないんです。
もちろん、これを指導する力がないっていう大問題もあるわけですが。
//////////

さて、ここから本題。傲慢な言い方になります。

いつまでたってもどうしようもないことを繰り返している人っているんです。
そして始末が悪いのは、本人はそれに気づかないんです。
よく言えば、その人たちってとっても“がんばっている”んですね。

「がんばっていればいい」
これが社会では通用しないんです。

ちょっと立ち止まって、何が問題か考えればいいのに。
もっとシンプルに考えて、やるべきことを一つひとつやればいいのに。

どうにもならない人たちを見て、そう心配する人は世の中に1〜5%はいると思ってます。

そして、どうしてあげたらいいのかと考えます。

物事の事態から言ってしまえば、その人たちがやっていることの全否定になってしまうようなこともあります。
経営者で、人事権があって、冷徹であれば、「クビ」の一言ですむかもしれませんが(人材育成も経営者の手腕であるとはいえ、どうにもならない人はいるし、人材育成にしてもコストは必ず加味するものです)、一緒に働く者にしてみれば、べつにその人を貶めることが目的ではないですから、見て見ぬ振りをするか、なんとか手助けするしかないわけです。
否定するのは、簡単。
でも問題の解決には、残念ながらあまり向かわない(結局立場上、問題解決の主体者がその人になるから)。
しょうがないから、自分の仕事の時間を削って、手助けする。
でも、その人のプライドを傷つけないようにしながらやんわり話すから、話がなかなか噛み合ず(問題部分に気づかせるのに)長時間かかる。

5%の中の1%弱の人が、きっとこれに上手に立ち向かうことができているのだと私は思います。
すなわち、キーコンピテンシーをそなえた人です。

正直なところ、ここの話がしっかりできる人はごくわずか。
そして、残念な話、現在の私はまだまだ修行不足。
う〜ん、うまく表現できないけれど、「交流力」が足りない。

ただ、言わせてもらえばね、
問題を解決するには、どうしたって、クリティカルな洗い出しの作業が伴うんですよ。
批判に耐えられない人間、批判と批難の区別のつかない人が多すぎるのです。
hybris | Spice | 14:42 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

選挙結果

これが本当に民意というやつなんですかね。

民主党の約半数が新人でしょ。
中には素人さんもいらっしゃるようですし。
「この際、素人でもいいんだ!」
ってなくらいだったら、むしろ国民の判断力に問題があります。

国会議員は国民の代表ですから、
民主主義の原則にのっとって選出された国会議員がおかしければ、
国民にも何かしら病んでいるところがあるってことでしょう。
(もちろん、鶏が先か卵が先かみたいな議論が出てくるでしょうけど)

民主党が大勝することが事前に予想されていたわけですから、
普通に考えれば比例代表への投票はかなり慎重になるはずなんですが。
相当、自民党に失望していたってことなのでしょうね。

いずれにしても、ここからがスタートなわけです。
マスコミに煽られて政権交代に高揚してないで、これからも政治に関心をもつ人が多く残るといいですね。(私は疎い方です)

自民党のネガティブキャンペーンには、痛々しさを感じましたが、
民主党マニフェストには怪しい部分がたくさんありますので、期待でも不安でも、これからの政治をしっかり見ていこうと思います。
hybris | Spice | 02:16 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

ブログとマイクロブログ

正直言って、マイクロブログが流行る理由はよく分かりませんでした。

だって、マイクロブログって、文字数が制限されたブログであって、特段目新しい機能があるわけではないからです。

Twitterを代表とするマイクロブログには
・200字程度のテキスト
・SMSや電子メール、ウェブブラウザなどから投稿
・特定のつながりを求めたり求められたりする
・コメントやトラックバックがテキストに直結する
のような機能をもっています。

ブログを簡略化し、SNSと融合したような感じですか。

手軽さとよく言われていますが、別に普通のブログでも携帯から投稿できますし、今までのブログと大差ないのではないかと思います。
コメントやトラックバックもあるので、多少の手軽さはあるものの、テキスト上からコメントすることへの手軽さもあまり感じられません。それどころか、自分が特定の誰かにコメントしたことは、タイムライン上にのってしまうし、つながりをもった相手のテキストも自分のタイムライン上にのってしまうので、備忘録としても使いにくいのではないかとも思ってしまいます。


ですが、しばらく観察してみると、結構違いがあることに気づいてきました。
というよりも、正しい使い分けも見えてくるような気がしました。

ブログは、やはり「記事」として成り立つレベルのものを掲載することを主目的としています。
あれしてこれした、のような日記でも構わず、ある事象への自分の考えを述べるものでも構いません。
ここには、ある種、書き手の思想や信条があらわれるものです。

それに比べて、マイクロブログの場合は、「記事」として成り立つものにはなりません。理由は当然テキスト量です。ゆるいコミュニケーションをうたっているものもあるぐらいですから、本当に「つぶやき」程度のものです。
ところが、実は気づかれていないほどのすごい部分があるのです。
それは、マイクロブログはSNSほど閉じられておらず、かつ少ないテキスト量であるため、暴力を振るえない環境があるということです。

短いテキストでものを言うには、「駄文」であるか、「意見」であるかというように、自然と制約ができるのだと思います。

常にインターネット上で自分の立場を明らかにするという責任を再認識させてくれるもの。

マイクロブログをやることによって、本来のブログの役割も再認識できるのではないでしょうか?

この数年間で荒廃してきたブログ文化を浄化してくれるものになってくれることを祈っています。
正しく思想・信条を発信できるようなブログを。
もちろん、教育するのは大人です。大人からかわらなくちゃ。
hybris | Spice | 11:30 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |

信用形成のプロセス

教員にとって、日常業務の範囲を超えたところで何かをがんばることによって、初めて功績があらわれるものだが、そのような努力は報われないことが多い。
価値観の問題であろうが、大概、「子どもに向き合うべき仕事に注力していない」という批判をくらうことになるからだ。

教師という仕事が「聖職」であるのならば、このような考え方がまかりとおってもいたしかたないかとも思う。神父・牧師が、いつ何時であれ、神につかえる身であることを意識するように、教師もいつ何時であれ、子どもに献身すると。

しかしながら、この考え方は現実的であるはずがなく、教師、こと小学校の教師にいたっては指導力だけでなく、人間力とでもいえるような人としての魅力を磨く必要があると私は考えている。なぜならば、幼い子ども達にとって、その年頃にふれあう大人は非常に限られており、その範囲の大人に対して「自分には到達できない大きな」こと・もの・価値などに出会わされるのであるからだ。

勉強以外に遊びも教えるのだと、ただそういったメソッドだけの話ではない。
楽しいことを楽しいと感じられるのは、生まれもった感受性に依存したものではなく、これも学ばれるものなのだと考える。

さて、私が言いたいのは、「教師はもっと遊ぶべきだ」ということではない。
教師が、一人の人間として自分を高めていくための行動が、教師という職の中でもっと信用されていくべきだということに加え、教師は信用形成のプロセスをきちんと見据える必要があると言いたいのだ。

一昔前の「教師は聖職」とされていたときのような、無条件的な信用は、とっくに存在しておらず、第三者評価が必要な時代に入っている(学校としての話だが)。

しかしながら、「信用されている相手のことは信用する」という、前提的な信用を必要とする一種の甘えは依然として根強くある。それを崩すことは実は相当に困難であるとも考えている。すなわち学校という場で現在子どもに与えているのが「無条件絶対的信用」が前提にあり、信用形成のプロセスは教育されていない現実があるのだ。

矛盾しているようだが、この点について一度反省をしてみて、
「このような行動が、信用につながる」ということを事例化し、それをまた同時に教育にもいかしておくことをすすめる。

信用失墜行為の禁止など、信用を失うことは法令に定められているとしても、そんな消極的な姿勢ではなく、信用を高めるための行動がなんであるか考えてみるのはよいことだ。そして、周りは、教師の行動が子どもに直接的であるもの以外でも評価する視点を確実にもっていくことがよいと考える。
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hybris | Spice | 23:50 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

きたよ〜、今日の夢

今日は2本だてでこわいゆめでした。

久しぶり(普通の人は、久しぶりにも出てこないのですが)に夢にキョンシーが出てきました。

近くに人ががぶーってかまれちゃうの。
で、「かまれたら、すぐ気を失うかなあ。どれくらい血をすわれちゃうのかな。でも、キョンシーの毒が入っちゃうってことは、吸われるんじゃなくて、入れられちゃうのかなあ。血を吸われるんだったら、ミイラみたいになるまで吸われ続けられたらこわい〜」って思ってるの。


2つ目は、以前みた「のろいはあるよ」の続き?!
感染病棟みたいなところの進化バージョン。何か大きな悪の組織があって、なぜか狙われているの。
逃げているところに、砂地の下に抜け道が。
地面の扉をあけて中に入るのだけど、開けたままじゃばれちゃうから、扉を半分閉じてその上に砂や土をかためて、なんかうまいこともう半分の扉もしめるの。そのとき、姿はみていないけど、「○○ちゃん、☆☆くん、手伝って!」と一緒に逃げてきた子ども達(以前もってたクラスの男の子)と逃げてることに。
逃げた地下は、巨大な地下建築のような場所。でも、ふと気づくの。ここから上にある悪の組織の建物を通じて抜け出せる(やっつける?!)のではと。

で、地下を走っていくと、あるのですよ、上にいくエレベーターが。
でも、エレベーターが下まできたら、悪の人たちに、「エレベーターがB1に行ったぞ!だれか地下にいるのか?」ってばれちゃうんじゃないかって、どきどき。
そんなところでおしまい。
hybris | Spice | 12:56 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

ソシュール

フェルディナン・ド・ソシュールという言語哲学者がいます。
私、現代哲学はかなり苦手で(いや、どれもこれも人にいえるほど勉強できていない)、こと言語哲学については結局理解にいたりませんでした。
が、今でも興味関心はあるのです。

でね、ふと思い返すきっかけになったのが、英語教育活動の校内研修。
横浜がめざすところの英語活動(次期英語教育)が、私にはさっぱりわからない。

現段階では“慣れ親しむ”ことが目的とされているのですが、正直言って教員にとって「慣れ親しむ」ことをねらいとして授業を組むのは相当つかれます。子どもにきちんとした投げかけもできなければ、評価もできやしない。
あいまいなうちに、1時間1時間をすごさなくてはならない。

アメリカナイズされたコミュニケーション能力を育成することを目的として、便乗して英語の習得のたすけともしてやろうということだとしても、それでは活動の内容に疑問が出てくる。
本質論がなされないまま、英会話教室の実践例など寄せ集めたりして、本当にうすっぺらく適当な価値付けでやっているのだとしか私には思えないのです。

いや、今の英語活動が無意味だとは決して言ってませんよ。
ただ、○○教育と名のつくもので、学校で教えるよう求められているものは星の数ほどあるというのに、きちんとした価値付けがなされていないまま英語が採用されることには納得がいかないと言いたいのです。

チャンツという指導手段がよく使われますが、コミュニケーション能力の育成とはねらいがずれます。無理なく英語の発音を覚える事はできるかもしれませんが、それならば、どうしてきちんとした発音を定着させてあげないのか。
ちゃんと徹底したら、子どもが英語を「楽しい」とは言わなくなるといわんばかりの曖昧さ。

絵カードを見せてから発音をしていくものがありますが、この指導方法は低学年と高学年では、作用がことなると考えるのです。
すなわち、低学年の母国語未成熟な段階と、高学年の母国語がおよそ成熟した段階では、効果がまったく異なるであろうと。
それは、ラングとパロールから示す事ができると思います。ラングが確立すればそれは母国語の規則性が個人内において成立することを意味し、絵カードをみた場合、その事物事象は母国語の規則の中で言語として輪郭づけられ、そこから英語に翻訳活動を脳がおこなうことになると。つまり阻害要因になると考えられます。
ラングが確立していない段階では、パロールも形成途中であって、絵カードを見た場合は、その事物事象が十分に輪郭づけられていないからこそ、どちらからのアプローチも可能になるのであろうと思うのです。


エクリチュールもまた阻害要因になるかもしれませんが、だからといって、小学生段階ではアルファベットは教えないという理由にはいささか根拠にかけているように思えます。

人間の発達段階を思い返してみましょう。

「ママ」「マンマ」から始まり、「ママ、マンマ」「ブーブー」、そして「ママ、これ何?」のように言語発達していくことを考えれば、英語活動においても「これ何?」という自発的な問いが出るところまではたどりたいところです。
とはいえ、もう小学生として発達段階からは書き言葉による知の習得が常態化しているわけです。それなのに、エクリチュールに触れずしてやっていくにはむしろ困難が生じるのではないかとも考えられるのです。



せめて、子どもに「どうして英語を勉強するの?」と聞かれたときに自信をもって答えてあげられるようになりたいものです。「将来のためだよ」「君たちは、将来国際社会で生きて行くんだよ」「世界の人とお話できたらすてきじゃない」なんていろいろと適当な言葉をならべるんじゃなくてね・・・。


最初に申し上げたとおり、私はソシュールの言語哲学については不勉強で、「ラング、パロール、エクリチュール」に対する使い方も間違っているかもしれません。

hybris | Spice | 01:19 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

こんなこというのも難ですが

読書感想文って、何の意味があるんでしょうね。

本のあらすじをだらだら書いてしまう失敗例はよく目にしますが、はっきりいってしょうがないのではないかと。

まず、読書感想文がカリキュラム上にきちんと位置づけられていない。ゆえにきちんと書き方を学校で教えていない。

感想だから、なんでもいいはずだけど、何でもはよくない。つまり感想文を書ける本と書けない本があると言ってよい。

感じたことや思ったことを書くから感想文なわけで、考えや主張が入ってきたら感想文の域をこえてしまうと思う。
ということは、学校が課題として出すような量800字とかって、相当難題ではなかろうか。

読書感想文の「よい」とされるものは、
本を読んで自分の人生とか考えに影響をあたえたことを書くこと。
自分の実生活やらと比較して、「この本からこういうことを知り(考えさせられ)、これからはこうしていこうと思う」みたいのがよいとされていますよね・・・。

でも、
「この本に書かれていることは、日頃考えていることと同じで、その通りだと思った」
のであれば、それでおしまいだし、
「共感できるところはなかった。」ということもあるだろうし。
いや、本の読解ならばね、自分の感覚とずれていようがなんだろうが読み取る事はできるでしょうけどさ。感想文なんだから・・・。

日頃から、自分と波長のあう本を見つけ、読む習慣が完全に身に付いていなければ、なし得ないのではないでしょうかね。
hybris | Spice | 00:43 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

問題解決(的)能力

切実な問題に直面したときに、本気になってその解決に取り組む

身近なところで問うことや、解決しようという意志をもつことが大人ならば当たり前にできます。

問うというのは、疑問をもつとか疑念を抱くということではなく、事実に対して追究をおこなう構えのこと。

自分がどうやって最大効果をもたらすために関わりをもっていけるか。

それは知識、教養、常識、倫理、判断力、そして理性。
これが必要条件であり十分条件ではないことなんて、誰でもわかることですが、

そこにとんだ勘違いで静観決め込むことが賢者であるかのような社会性の欠如が現実味を帯びてくるもんだから「生きる力」なんてものが明文化されることになるわけです。

調整力、行動力、実践力つまりそういうことでしょ。

でもって、今度はそっちばかりに目がいったりなんかして、やっぱり裏付けされる知識なんかが必要だなんて。

きちんと構造化しないからなしくずしのでたらめくんになるのよ。

もしそうならば、よく自分を存在づけせずに生きていられるもんです。

教育の担うところは大きいなと痛感しますが、理想だけ語ってもだめよ。
「教育」という言葉自体が正義すなわち暴力をともなっているのだから。


1からはじめること
まずは信じること。
人を、規範を、関係を。
利他的になることではなくて、自分を他人(モノ・コト)のうちに価値ある者として位置づけること。
礼節を重んじること。
その上で、自分の信じるべき道を全うすること。

で、いけないとなると
0からはじめること
まずは信じること。
神を。
そして学ぶこと。
なぜならば、神は敬虔なものを決して見捨てないから。
(現代の公教育ではおよばないところですな)

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hybris | Spice | 01:32 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

リーマンブラザーズの破綻

日本で言う、山一証券の破綻のようなものでしょうか。

バブルがはじけてからも、だましだましやっていくと、いつまでも抜け出せないことがよく象徴されています。

子どもにも、何かしら学ばせることがあるといいですね。
「うかれて調子にのっていると、とりかえしがつかないことになる」とか。

第2、第3の破綻とつづくのでしょうか?


老人をメインターゲットとして、証券税優遇なんちゃらっていっていた政策も、あまり意味がないくらい、株式市場も閑散としそうですね・・・。

宝くじでも買ってるほうがいいかもしれませんよ。


数日前のニュースでは、ユーロバブルはじけるとか。
くわしいことはわかりませんが・・・^^;

というか、ある意味、世界恐慌に近いのでは?!
hybris | Spice | 01:24 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

会とは

研究・・・
物事を詳しく調べたり、深く考えたりして、事実や真理などを明らかにすること。「大辞泉」

研修・・・
職務上必要とされる知識や技能を高めるために、ある期間特別に勉強や実習をすること。また、そのために行われる講習。「大辞泉」

会合・・・
相談・討議などのために人が寄り集まること。また、その集まり。寄り合い。


研究、研修、研究会、研修会

研究をしている人って、少ないです。
そして、「研究会」が成り立っているケースも少ないのでは。

今日、夜に「研究会」と名のついたものに参加した、が、私にとっては「研究報告をお勉強した研修」でしかなかった。
もちろん、考えさせられることがあったのだから、無駄な時間であったとは思っていないが、「研究会に行ったはずなのに」という感がずっとぬぐえない。
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hybris | Spice | 00:18 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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